Haitian Music

1804年、ハイチは世界で最初に黒人奴隷トゥーサン・ルベルチュールが指導、
独立を果たした国である。

Toussaint Loverture

 

1:Voodoo (Vaudou;Vodun;Vodoun;Vodou;Hoodoo)

西アフリカの土着宗教で、後にBlack Diaspora の各地に根づいた。
Voodooは2003年に公式宗教と認められたハイチに、多くの信者がいる。
また、1996年以来、ベナンでもブードゥーは公式に認められている。
同じように、ジャマイカでは pocomania として知られ、アメリカはもちろん、ギアナにも存在する。
ブラジルでは、カンドブレ、キューバでは、サンテリアと呼ばれている。

おそらくブードゥーの悪魔的側面は世界中の宗教信仰、習慣に共通するが、
大部分のブードゥーの特徴は西アフリカ、現在でも60%の人々が信仰している、ベナン近辺の奴隷たちによってもたらされた。
供物、生け贄を捧げることを通して精霊と交わり、憑依を得ること、また、魔術的儀式が特徴的である。
新世界に到着後、キリスト教を強制されることにより、アフリカの神々がキリスト教の聖人となった。
幾度と無く抑圧された後も、ブードゥー教は生き延び栄えている。



Vodou ceremony in haiti.
Haitian Vodoo live
Sorel fenelon Haitian vodou


 

ceremonial Marche

 

vodou altar Jacmelvodou


 

2: Rara (parading music)

 

ララはハイチ発祥の、復活祭の週に行われるプロセッセションに演奏される。
音楽はバクセンと呼ばれるひと組の竹筒トランペット(時には金属パイプ)を中心に、
太鼓、マラカス、ギアスまたはギロス(リサイクルの金属、コヒーの空き缶)によって演奏さる。
バクセンは断続的リズムパターンを繰り返し吹奏し、時にステックでバクセンを叩きリズムを出す。
現在では、バクセンの代わりに、通常のトランペット、サクソフォーンが使われることもある。

 ララは圧倒的にアフリカの影響にあり、ギロ、マラカスのを使うことからタイノ・アメリカ・インデアンの要素もあるが、
多くの唄はハイチクレオールで唄われ、典型的にアフロハイチの人々のアフリカの祖先を讃える。
時には、プロセッセションの中でブードゥーが演じられることもある。

 ララはドミニカ共和国にも影響ををあたえ、ガガと呼ばれるアフロ・ドミニカ音楽シーンの重要な要素である。
ドミニカ共和国では、音楽はアフリカの祖先への文化的な賛辞としてハイチに置ける音楽と同じように、
アフロ・ドミニカンの人々によって演奏される。

 ララはハイチでは、暫しば政治目的で利用され、立候補者が自身を讃える歌を依頼するとか選挙運動で演奏されるが、
ララの歌詞は暫しば政治的抑圧とか貧困とか、困難な問題に言及するゆえ、
ララのグループは演奏することを禁じられことがあり、国外追放を命じられたこともある。
有名なのは、フォーク シンガーの マノ・チャルマゲで、ハイチに戻った後、1990年代 ポート・プリンスの市長に選ばれた。

Manno Charlemagne "Konviksyon"

 ララのパーフォーマンスは、バトンツワーラーと共に行進しながら演じられる。
パーフォーマンスは普通、灰の水曜日に始まりイースターの週末に最高潮に達する。
ララ フェステバルは、サン=ドマング の植民地の奴隷達とクレオール達が
イースターの日曜日にドラムと楽器でパレードをしたと言われ、植民地時代に発達したとされる。
また、マローンの一団が、ララと同じようにドラム、ホーン、それに 歌い手達と進軍したという記録もある。
 1990年以来、ハイチ系アメリカの人々は夏の毎日曜日、ニューヨークのプロスペックト公園でララを演奏している。



Rara Haiti.mov
Rara 2012 Petite riviere de l´artibonite ronald


 

rara vaksen3 rara vaksen

 

rara queen rara vaksen


 

3:Twoubadou (ballads)

トヮバドウ (ハイチアンクレオール)=トルバドールはハイチの文化のなかで、
長期に渡り重要な位置にあるギターベースの人気のあるジャンルである。
トルバドールという呼称は、中世の宮廷詩人作曲家から来た。
昔のトルバドールのように、ハイチのトルバドールは、恋の苦さやユーモアを扱い、
暫しばわいせつできわどい歌詞を使う、シンガーソングライターである。

トルバドールは20世紀初期に発達したが、
キューバの伝統的なグアヒロ(プエルトリコの伝統的音楽ヒバロと繋がる)を起源とし、
ハイチの音楽でメリンゲと呼ばれる音楽が結びついて産まれた。
トルバドールは世紀の境にサトウキビ農場で季節労働者として、
収穫期にキューバに行ったり来たりしたハイチの人々によってもたらされた。
ほとんどのトルバドールは彼らの荷物を持ってサトウキビ畑とハイチを行ったり来たりしたので、
バンドの楽器はポータブルである。
彼らの楽器は、アコーステックギターを1つまたは2つ、
アコーデオン、パーカッションを使うことで特徴がある。
また、一組のマラカス、graj(scrapper),タンブー(たるドラム)、ジャメロフォーン(linguaphone)、
ベースギターの音色を出す、3つから5つぐらいのキイがあるマニンブロ、マニバ、マリンバ
(地域によって呼び名が違う)を使うことがある。
オリジナルのスパニッシュトルバドールに忠実に、
たいてい音楽その歌詞は誠実な愛、永遠の結びつきのイメージを歌い上げる。

19世紀後半から、ハイチの人々は季節労働者ネットワークの一部で、
サトウキビ栽培が世界で一番増えた1804年のハイチの独立後(独立以前はサン=ドマング)、
ハイチの労働者が定期的に働きに行ったキューバは、カリブ海域で最もサトウキビの収穫に成功していた。
彼らは、彼らの働いている地域で音楽スタイルを作り上げた。
ツンバ・フランセサはキューバの表現だが、ハイチ由来のリクレーションのドラミングと踊りで、
現在でも国を離れたハイチのサトウキビ労働者の中で行われている。

トルバドールの歌の構成はシンプルで、歌とコーラスの二つである。
ハイチではトルバドールは国民音楽として人々に愛されているが、残りの世界ではほとんど知られていない。
ミスク・トルバドール(トルバドール音楽)は、常に支持者があり、
二人のギター、マラカス、タンブー(たいこ)、それから歌手兼セレナーデ・ダンサーのコンボで、
ハイチまたはキューバ音楽を演奏し、特に小さなナイトクラブで演奏される。
おそらく20世紀後半のポピューラーエンターテイメントの世界で
トルバドールスタイルの最も有名で近代的な要素を持っていたのは、
ジャーン・ヘスナー・ヘンリーで、Coupé Clouéとして知られ、彼の性的示唆に富む歌詞が有名であった。

Coupè Cloue Mix

近年、コーマーシャル・アーティストがトルバドールサウンドを取り入れ、
キューバ音楽のギターとリズムを強調し数枚のアルバムをリリースした。
一番の成功したのは、Haitiando で、キューバの音楽をクレオールに訳し、
2本のギターのアンサンブルで歌い3枚シリーズのCDを出した。
Haitiando のシリーズは、人気のあるキューバの曲をクレオールに訳することで、
忘れられていたハイチ音楽とキューバ音楽の繋がりをあきらかにした。

Haitiando "El Manisero"

以前もっと人気があったといえ、今日、時には、オールドファッションまたは年配向けと考えられ、
もとも人気のあるRasin またはCompasに覆い隠され始めていたが、
つい最近、Mizik Mizik のようなグループによってカンバックしている。
1999年の彼らのアルバムからの曲“Blakawout”は、若い人々の間での音楽の一つになった。

Mizik Mizik "Blakawout"

トルバドールのミュージシャンは小さなアンサンブルで演奏し、
比較的大きなレストランで見かけることがあり、小銭でリクエストに答えたり、野外の祝賀会で演奏している。
いくつかの有名なコンパ・バンドとミュージシャンは彼らの曲のいくつかで、トルバドールの人たちと協力し合っている。
第56代ハイチの大統領、Michiel Martelly(ステージネイム:Sweet Mickey)は “Pa Manye Fanm Nan”,
Alan Cavè は“Ma Rose”.Mika Benjamin は “Ou Pati”をヒットさせている。

Sweet Micky (第56代大統領)”Pa Manye Fanm”
Alan Cavé "Ma Rose"

Mkia Benjamin "Ou Pati"
トルバドールのグループは Patron’s day feasts の時のカーニバルの間に、
プライベイトパーティーや、観光客の多いホテル・レストランで聞くことが出来る。



Troubadour D'Haiti (African tv )
Troubadour Krehol vol.1 (African tv )



 

4: Mini Jazz (Mini Djaz)

ミニ・ジャズは60年代半ばのメラング・コンパスバンド(メレンゲはドミニカ)の縮小版で、
2本のギター、ベース、ドラムーコンガーカウベルを基本に、
時にアルトサックスまたはフルホーンセクション、その他キーボード、アコーデオンまたはリードギターで、
ロックバンド形式で演奏される。
1915年から34年のアメリカの占領がジャズをハイチにもたらし、
ローカルバンドは時のアメリカのビッグバンドジャズに対抗して、自らの音楽をジャズとよんだ。
ジャズと言う言葉が、バンドとかオーケストラの代わりになった。

1960年代初期に"yeye"(ビートルズの"yeah yeah yeah"から)と呼ばれていた軽いロックンロールバンドから広まった、
ミニ・ジャズ(ミニ:当時流行っていたミニスカートから、djaz:ジャズ)と呼ばれる小さなバンドはコンパスを、
2本のギター、エレクトリック・ベース、ドラム、パーカッション、時にサクソホーンをフューチャーして演奏した。
この流れは、1965年 Shleu Shleu によって始まった。
Shleu Shleu "Moun Damou"
続いてポルトーフランス近郊、特にペティオンビルから多くのバンドが現れた。
Tabou Combo, Les dificiles, Les Loups Noirs, Fréres Déjean,
Les Fantaísistes de Carrefour, Bossa Combo,Les Ambassadeurs,etc.、
彼らが、ミドルクラス・ポピュラーミュジック・ムーブメントの中心を担った。

Tabou Combo "30years to The Zenith"
Les Dificiles "Enfant ne cours pas">
Les Loups noris "La Sirène"
Les Fantaisistes-du carrefour "Vice et Vertu" 1972
Bossa Combo "Deuxiéme Indépendance"
Les Ambassadeurs "Mandjou" featuring Singer Salif Keita and Guitarist Manifila Kantè,early 1980s
les Freres Dejean/Shah Shah/diet-x et System-band/ groups mystiques haitiens par D'ji Prod
D P Express (Les Difficiles de Pétionvill) "ÉÉÉÉ"


 

5:Rasin movement.

ラシーンは1970年代に始まった音楽ジャンルで、
伝統的なハイチのブードゥーと民族音楽とロックンロールとの結合で産まれた。
この音楽のスタイルはブードゥー・トラディションのルートまで遡り、
ハイチクレオールで言う、Mizik rasin(ルート・ミュージック)、
またフランス語で言うMusiqueと呼ばれるものである。
このムーブメントは暫しば単に、ラシーン(rasin)またはラシネ(rasine)と呼ばれる。
ハイチのブードゥーの音楽的伝統はアフリカと結びついている,
“クールな”ラダ・リズムとニューワールドと言える “ホットな”ペツー・リズムがあり、
ラシーン・バンドは、特に同じ曲の中ではないが、2つを一体化させている。

基本的なホーンとドラムのリズムで、メロディーはロックンロールからの構成を含んで重層的である。
典型的なラシーンの楽器構成は、色々なドラム(ラダおよびぺツーのスタイルを含む)、
ララ(パレード)ホーン、キーボード、エレキドラム、エレキギター、エレキベースで、
1人または数人のボーカリストが歌う。
たいてい歌詞はクレオールで書かれ、ブードゥーで使われる伝統的な歌詞や詩が使われる。
歌は、疑い、騙し、戸惑い、孤独、裁きと正義、そして祖先の大地との繋がりを語る。
いくつかの曲は、特に ”lwa” 神に繋がる祈りを基礎にし、
その他はブードゥー神話を語るバラッドになっている。
多くの曲は、色々な意味を持ち社会・政治的コメントと解釈されることができるが、
曲は暫しば、忍耐、信仰、正義、普遍的愛を強調する。

音楽はアップビート・リズッミクであり、ブードゥー儀式のように、ダンスのためのものである。
ジャン=クロードと彼の父 フランソワ・デュヴァリエの政権下、
政府はブードゥーの宗教伝統の権限を利用し、多くの宗教指導者を用い、
残忍な権限と命令を押し付けるのを正当化した。
ジャン=クロード・デュヴァリエが国外に逃げた後、“dechoukau” (根絶すること)が広がり、
前政権の最も圧制的な要素を根こそぎにし、政府との関わりからブードゥーを隔てる試みがされた。
デュヴァリエ政権の元では、それ以上のことが出来なかったために、
ブードゥーの民族リズム、歌詞、楽器構成をロックンロールとジャズの要素とを組み合わせ、
新しいサウンドを作った。

このムーブメントはハイチ系アメリカ人のアーティスト、
デュヴァリエ政権の崩壊後、国外逃亡から帰って来たハイチの人たちを魅了した。
ラシーンはジミー・ヘンドリックス、カルロス・サンタナの影響を受けたギターと、
コール&レスポンススタイルのボーカルとブードゥードラムを使用し、
ハイチではもとっとも政治的な音楽スタイルで、デュヴァリエ独裁政権のもと展開したが、
軍隊を批判し、ハイチの文化・信仰を讃える。

ラシーンのバンドは暫しば政治的メッセージを含んだ唄を歌い演奏する。
Boukman Eksperyans の “Ke`m Pa Sote”、英語では、“I am not afraid”は、
1990年のポルト=プリンスのカーニバルで最も有名な曲で、
プロスパー・アビル将軍の腐敗した軍事政権を批判したもだと広く知られている。
Boukman(ブックマン)は1700年代後半、暴動を主導した奴隷の名前である。

Boukman Eksperyans "Jou Nou Revolte
Boukman Eksperyans "Ke me Pa Sote (Kanaval 1990)"

最初に1992年のポルト=プランスのカーニバルで演奏されてたが、
軍事クーデターでジャン=ベルトランド・アリステイドの大統領職権が引っくり返された1ヶ月後、
RAMはクレオール語で“Féy”(leaf)と言う曲を定期的に演奏するようになった。
この曲の歌詞ははフォーク・ブードゥー起源で、特に政治的状況を公然と扱っている訳ではないが、
広くラジオで取り上げられ、すぐ国中に広まり、
アリステイドをサポートする非公式の讃歌となった。
1992年の夏、この曲は、軍事政権によって禁止され、リーダーのMorse は政権から死の脅しを受けた。


RAM "Jacomel(Kanaval 1999)"
RAM "Frèy"
Azor Live
Zobop "Zo May May"



 

6: Hiphop Kreyól.




 

7:Compas

コンパス(ハイチクレオールで“コンパ”)はヨーロッパとアフリカを起源のハイチのモダンメラングである。
このジャンルは1955年、ヌムール・ジャン=バディストウェルベール・シコーによって作られたバンド
“Conjunto International”によって有名になった。
コンパは多くの国、ドミニカ、旧フランス植民地諸島で重要な音楽である。
マルティニクまたガダルーペの旧フランス植民地諸島のアーティストがわざとズークと呼ぼうが、
ハイチのミュージシャンがツアーする所ではコンパであり、
このメリングスタイルは、カリビアン、アフリカ、ケープ ベルデ、
ポルトガル、フランス、カナダの一部、南北アメリカで非常に影響がある。
コンパスはフランス語では“compas direct”で、クレオールでは”Konpa direk” Konpa.
スペイン語で compas は ビートとかリズムで、
際立つ特徴は休みの無い太鼓(tanbou)のビートで、カリビアンそのものである。

ヌムール・ジャン・バディストは、週末に彼のバンドがよく演奏していた、
ハイチの首都、ポルト・プリンスの西隣のカレーフォーにあるクラブから名付けたアンサンブル,
“Aux Calebasses”を1955年始めた。
コンパの人気は即興演奏とリズムセクションをタイト保つところから始まり、
ジャン・パディストは贅沢なラッパと分かりやすいリズムを取り入れた。
コンパはクレオール、英語、スペイン語、フランス語、ポルトガル語等で歌われ、
彼の人気は、国内、国外で広がった。
その研ぎすまされたホーンセクションは圧倒的で、メラングの曲を演奏することで、すぐさま人気を得た。
例えば、マルティニクでは、Ensenble Abricot (曲名:bienvenue,festival compas),
Les djoubap (Isabelle),combo jazz (electronique compas, pa gadem sou cote),
Georges Plonquitte (vini dance compas direct)等のバンドが、
多くのジャン・バディストのレパートリーを演奏し、1年もかからず聴衆を虜にした。

L´Ensenble Abricot 
Les djoubap "Zaia copa"
Combo Jazz "El Samaritono"
Georges Plonquitte "BELLE FEMM'PAS KA TA OU"

後に、ジャン・バディストはドミニカの大統領ホアキン・バラゲールお気に入りとなり、
有名なドミニカのスター ルイス・ミゲル をフューチャーした“Ti Carole” “Chagrin d`amour”のようなヒット曲があり、
その他多くの曲をスペイン語で歌っている。
1950年代後半、ジャン・バディストとシコットブラザーズは、
カリブ海域、クラセオ、アルバ、セント・ルシア、ドミニカ、
旧フランス植民地諸島のマルティニク/ガダルーペを頻繁にツアーし、メラング・リズム・コンパを広めた。

Nemours Jean-Baptiste "Immortel Compas" in 1965
Nemours Jean-Baptiste " Compas Cabane Choucoune" in 1966

ウェルベール・シコー、もう一人のコンパの創始者は、
旧フランス植民地のプロデューサーと3枚のLPを録音している。
ガダルーペで2枚、“Celini Disques”と、マルチニィクでは、“Balthazar”と。
ハイチのコンパバンドは諸島ミュージシャンをまとめるように要請された。
その結果、”Les Guais troubadours”にはじまり、
他のバンドと一緒に,影響力のあるシンガー“Louis Lahens”が、
諸島の人たちがコンパの音楽スタイルを学ぶのに活躍した。

Wibert Sicot "Carnaval 1967"

ほとんど存在したすべてのコンパバンドが、
メラングのダンスと音楽を採用し、これらの島々をツアーした。
1950年代コンパで踊られるスタイルは、“Kare”(square)と呼ばれツーステップだった。
メラングは、そもそも社交ダンスで、コンパはペアで踊るものである。
ときにパトナーはお互いにきつくロマンチックに抱き合い踊る。
このときの動きの中心はヒップである。

アメリカの占領期とその後、ジャズと言う言葉はバンドと言う言葉と同じになった。
ミニ・ジャズと言うのは小型のメリング・コンパ・バンドのことである。
この動きは、近所の小さな若者バンドが2本のエレキ、エレキベース、コンガ、カウベルとセットのドラム、
ときにアルトサックス、そしてフルホーンセクション、キイボード、アコーディオンで演奏した、
1960年代に始まった。
この傾向は、1965年 の“Shleu Sheu”によって火がつけられた後、
ポルト・プリンスの近郊、特にペティオンビル郊外から多くのバンドが現れた。
Tabou Combo, Les difficiles, Les Loups Noris, Les Rreres DeJean,
Les Fantaisistes de Carrefour, Bossa Combo そして Les Ambassadeurs,etc.
彼らが、中産階級音楽ムーブメントの中心となった。

Les Ambassadeurs-EPK
Les Ambassadeurs feat.Salif Kaita "Sidou Bahkili"
Bossa Combo "Joanne"
Tabou Combo in Panama 2002
Shleu Shleu
ZOUK SHABBA Jou A la - Haitian music (You tube)

1968年から1970年代、傑出したバンドは、Bossa Combo, Les Shleu Sleu,
Les Ambassadeurs,Les Vickings, Les Fantaisistes, Les Loups Noris,
Les Frères Dèjean, Les Difficiles, Les Gypsies
そして魔術的とも言えるTabou Comboはカリブ海域はもちろん、ヨーロッパ、南アメリカの音楽シーンを率いた。
たとえば、Tabou Combo は”New York City” という曲で,
1週間パリのヒットパレードのトップにいた。
同じ時期、彼らはニューヨークセントラルパークでのコンサートを満杯にした。
☆ミニ・ジャズ参照
これらの若いミュージシャン達は、このスタイルを漠然とさせる新しいテクニックの創造には、批判的であった。
Raymond Guaspard (ジャン・バディストのバンドのギタリスト)が1950年代にとっくに始めてたとはいえ、
多くのギタリストたとえば、Corvington (LesCorvington),RobertMartineau(LesDificiles/Gypsies/Scorpio/Topvice..),
Serge Rosenthal (Shleu Shleu), Ricardo/Tiplum (Les Ambassadeurs), Claude Marcellin (les Difificiles/D.P.Express..)など、
その他多くがメリングの際立った特徴を表す、入り組んだリズムギタースタイルを作り上げた。

メリング・コンパは多くの国に根付き、影響を与え、他の名前で呼ばれることがある。
たとえば、 Zouk, Coladeira, Kizomba, Cadence-Lypso.

Ti Manno - The best of Ti Manno in 2013


 

8: Mérinque

メレンゲは(メラング)は、ハイチを代表する音楽ジャンルである。
メラングは、ルートとかギター等の弦楽器ベースで、
いわゆるアコーディオンベースのドミニカのメレンゲと違い、
主にハイチのクレオール、フランス語、また英語、スペイン語で歌われ、演奏される。
メラングはヨーロッパのコントルダンスと当時のヒスパニョーラ島のアフロ カリブの影響がある。
アフリカとヨーロッパの文化のブレンドは、
ミュージシャンの力量を聴かせるのに劇場やマイクなど必要としないアーティストたちが、
簡素なアコーステック楽器で演奏する人気のあるダンス音楽を生み出した.

メラングという言葉は18世紀のフランスで人気のあった、
泡立てた卵と砂糖で作ったお菓子の事であるが、その言葉が応用されたのは、
踊り手が優雅に自分の体重を流れるように移動する、
ハイチのコントルラダンスの最後の部分をまねた、ダンスの軽快な本質を突いている。
ハイチ革命のころまで遡るカラビニエールというハイチの踊りと、
西洋のポルカ、ファンタンゴ、べルーズ、メヌエット、そしてコントルダンスを受け継つぎコンゴの影響を吸収したものが、
メラングに発展したと言われている。18世紀中ごろになると、メラングがハイチの重要な世俗音楽となった。

18世紀のカラビニエールは、サロン用と世俗向きがあり、
ヨーロッパのエリート達から、その体をひっ付け合う踊りを嫌がられた。
メラングは、その母体のカラビニエールと同じく、サロン用と世俗向きがあり、
サロン用は、ピアノ、また交響楽的アンサンブルで、19世紀末まで上品ぶった踊りを作り上げた。
世俗向きでは、2部構成で歌は詩的で簡単なハーモニーとコーラスの繰り返し、
そしてコール&レスポンス、変化のあるダウンビートの16ビートのパーカッションの特徴がある。
それは、すでにジャンルの形態を変へつつあったムラトーや黒人奴隷たちにが、
植民地の初期のエリートたちのダンスの主要な要素をまねしたものである。
メラングはハイチのエリート、またプロレアリア大衆から、
ハイチの文化価値の表現の代表であると認められている。

ヨーロッパで勉強し、その影響で作曲した多くのエリート作曲家は、彼らの才能の表現にメラングを利用した。
彼らエリート作曲家は、曲名に人の名前を使った、
例えば、Occide Jeantry の代表曲 "Maria"、
   Francois Manigatは,ソロピアノ、小人数の管楽器用の “Eight days while staying in cap”を書いた。

Ludovic Lamothe (5 piano Pieces) Quintolet

  メラングは,Quintuplet、Quntolet(French),Cinquillo (Spanish)と呼ばれる、5つの音で構成される。
5つの音は、一様でなく分割され、“long-shortーlongーshortーlong”の感覚で、
よりスムーズで微妙なリズムを表現する。 

Cinquillo

Afrotempo: Orchestre Septentrional d'Haiti "1er Janvier"

特に19世紀なると、メレンゲはカーニバルでプロレタリアート聴衆にも用いられた。
エリート向けのメラングはダンスフロア用であったが、
カーニバル・メレンゲは人気の悪い権力者を批判したり,彼らの特異性を嘲り、
ハイチの特権階級に向けられたものであった。
ハイチのカーニバル・メラングの権力批判の明確な表現は、
初期のカリプソの picong(あざけり)、または辛辣な批判に共通するものである。
ダンスは多くのカリブのダンスに見られる緩やかな腰の動きを強調している,
ハイチでは、この動きをgouyad(フランス語の「動く、かき混ぜる」),
また、島の最大のトカゲの名前を取って、mabouyと呼ぶ。

多くの他のカリブのジャンルと同じように、メラングは多くは無名のアーティストによって演奏され、
彼らの音楽は素晴らしく生き生きとしたもので、伝統的である。
第二の国歌と呼ばれる“Haiti Cherie”とい言う曲は、Dr.Othello Bayard de Cayes(1885-1971)によって作曲され、
多くのベスト・トラディショナル・メラング・バンドが、
ほとんど知られていないメラングの古い曲をレパートリーにするきっかけになった。

George Moustaki "Haiti Cherie"
Haiti Cherie
    Stevy Mahy ft James Germain - Haiti Cherie
Harry Belafonte "Haiti Cherie"
Haiti Cherie
"Haiti Cherie" by Jacques Sauveur Jean (Jackito)

唯一の例外は、“Choucoune”または“Ti Zwazo”と言う曲で、
ハイチの詩人 Oswald Durandによって作詞された。

Issa El Saien “Choucoune”

メラングは、人々が彼らのアイデンティを思い出させるリズムで、
カップルが腰をくっつけ合い踊るストリート・パーティの中心である。
メラングは、ハイチの "Tabuo Combo""Carribbean Sextet","Missile 727"など,
多くの国際的なグループのルート音楽である。
メラングはメラングから生まれたコンパに、現在は人気を奪われている。

Carribean Sextet "Kenbe´m la"
Missile 727 "Rassemle"


 

参考;Wikipedia ハイチ音楽
石橋 純 「カリブ海音楽紀行」”熱帯の祭りと宴” つげ書房新社刊
Peter Manuel "Popular Music of the Non-Western World"
Peter Manuel with Kenneth Bilby and Michael Jargey "Caribbean Currents"
Paul Austerlitz "Dominican Music and Merengue"

 

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もう一度 2:Rara へ
3:Twoubadou 
4: Mini Jazz
5:Rasin movement
7:Compas
8:Merinque

 

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