Dominican Music

 




Merengue

ドミニカのメレンゲは、ハイチのメラングと同じようにほぼ同時期に,
ヨーロッパの音楽、ダンスとアフリカの音楽,リズムがふれあうことから始まった。
ハイチと同じように、上流階級の人々から嫌われたが、
民族音楽として国中に広まった。 (ハイチ音楽 8:メラング 参照)
メレンゲは中ぐらいから、速いテンポの2/4拍子で演奏され、ギターまたはクアトロ,
グゥイラ(メタルスクレイパー)
タンボーラ(膝に置き、左側は素手で、右側はスティックで叩く)
そして、マリンバ(キューバのマリムブラ )をベースとして演奏された。
後に1870年頃、ドイツ移民によって持ち込まれた、ボタン アコーデオンが弦楽器に取って変わった。

メレンゲ ティピコは伝統的なアコーデオン メレンゲのことで
Francisco Ulloa, Fefita la Grande, El Ciego de Nagua,Rafaelito Roman 等、が有名である。

Clasico de Guandulito mix 01 completo de Merenque Tipico.

現代のメレンゲは電気楽器とサルサ、ロックンロールの影響があり、
伝統的なタンボーラ、グゥイラに、2〜3人のバックアップシンガーとのコール&レスポンスが入る。
1960年初期、ジェームス ブラウンの影響を受けたダンスを取り入れた
ジョーニー ベンツラ の バンドスタイルが、一般的となった。

メレンゲは、20世紀初期には、特に人口の多かったシバオ地区では、大衆に受けいられなかった。
Juan F Garcia, Juan Espanola,Julio Alberto Hernandezなどは、
メレンゲを主流にと努めたが、社会の偏見に勝てなかった。
変化が起こったのは、1916年から1924年のアメリカの占領を嫌った、
シバオ地区のエリートによる国民的自覚からである。
語り継がれる話によると、速いテンポのメレンゲ ティピコがテンポを落としたのは、
メレンゲの難しいダンスステップを踊れないアメリカ兵のためだといわれている。

メレンゲが一般に受けいられ始めたのは、1930年初期に、
ラファエル トルヒーリョが、アメリカ庇護のもと権力を手に入れてからである。
独裁者 トルヒーリョは、大統領になってから、1961年暗殺されるまで、
メレンゲをドミニカのナショナルシンボルにした。
貧しい生まれのトルヒーリョは、エリート社交界から除外されていたため、
洗練された社交界の雰囲気を嫌い、シバオスタイルのメレンゲをプロモートし、
すべての階層の人々に大衆のダンスを強制した。
トルヒーリョの命令で、実質的にすべてのバンドは、
独裁者をの政治、指針、彼の政党の行動を賞賛する曲を書かなければならなかった。
その上、都会のダンスバンドすべてにメレンゲをレパートリにすることを義務とした。

独裁者 ラファエル・トルヒーリョ
蝶たちの時代 ミラバル姉妹

ピアノや管楽器が入った、メエレンゲ起源のビッグバンド、
Luis Alberti のようなバンドが 首都で人気が出て来た一方、
アコーデオンを使ったメレンゲは、 不遜にも‘ペリコ リピアオ’(引き裂かれたオオム)と呼ばれた。
いずれにしろ、メレンゲはドミニカ共和国の国民的音楽・ダンスであった。

Orquesta Santa Ceilia (Luis Alberti)
Merengue Tipico Dominicano (perico ripiao)

1960年、新世代のアーティスト(有名なのはジョニー ベンツラ)たちは、
キューバのサルサと共に、アメリカのR&B、ロックンロールを受け入れた。
楽器は、エレキギター、シンセサイザーがアコーデオンに取って代わり、
ときにはサンプリングが使われ、サクソホーンの役割が完全に再定義された。
そんな変化に関わらず、メレンゲはドミニカ共和国で人気を保った。
ベンツラを例にすれば、むやみに賞賛され、異常な人気を誇り、
アメリカから時々帰ってくる影響力のある政治家なり、国家のシンボルと見なされている。

 


 

Bachata


バチャータはドミニカ共和国に産まれた、人気のあるギターミュージックである。
現在、アメリカのラティーノの間で圧倒的に成功したバチャータは、
サントドミンゴのバーや売春宿街でこの40年の間にかたち作られたが、
10年ぐらい前まではドミニカ国内でも受けいられることが無かった。
若いバンド‘アベンチューラ’のバチャータはオリジナルバチャータを、
ロックンロールとブルースのような、同じ近似性を持たせている。



事実、バチャータとブルースの類似性は注目に値する。
バチャータは色んな異なったリズムから、特にメレンゲから発達したが、
バチャータはボレロの変形といわれている。
ラテン文化に於けるボレロは伝統的に、裏切りとか失恋とかのテーマを扱うロマンティク音楽である。
‘バチャテーロ’はブルースマンのように苦痛や苦悩を歌う。
ひとつ違うのはブルースマンは南行き貨物列車に飛び乗るのだが、
バチャテーロの行き先は近所の飲み屋までで、部屋の片隅でラムのボトルに慰めを見いだすのだ。

このジャンルは ‘ホセ マヌエル カルデロン’が1961年に録音した
‘Borracho de amor’ ‘Que será de mi(condena)’が一般的に、
最初のバチャータのシングルだと認められているが、その後、色々な段階を通って来た。

Jose Manuel Calderon 'Borracho de Amor'
Jose Manuel Calderon 'Que será de mi'

もちろん、カルデロンのずっと以前から、ギターミュージックは、
バチャータの産んだ評判の悪い場所で、演奏されていた。
ボレロとかソンのようなギターまたギターミュージックは、田舎で重要なものだったが、
1961年の独裁者‘ラファエル トルヒージョ’の死で、
数多くのミュージシャンが田舎を離れ首都でレーコーデングした。
(独裁者トルヒージョは、労働者の移動を禁止していた。
その上、ドミニカ中の土地を自分の物にしたため、
職にあぶれた人々は都会のシャンティタウンに集まり、彼らがバチャータを支えた。)

独裁者の家族が事実上、この国の音楽産業を独占していたが、
トルヒージョが殺された時、事業家たちは、最初の世代のバチャテーロを録音し始めた。
この時点では、この音楽はまだバチャータではなく、「田舎者のボレロ」だった。
バチャータとは、もともとギターミュージックが演奏される、くだけた騒々しいパーティを意味していた、
後に、抽象的に音楽それ自身を表すようになった。

カルデロンが録音した頃、バチャータは本質的には、ボレロのひとつであり、
影響を受けたプエルトリコ、クエワドル、メキシコ、ペルーのそれと対して変わるものではなかった。
その後の数年に、まだ主としてボレロのリズムをベースにしてはいたが、
バチャータは見分けのつくジャンルとして輪郭を示した。

1980年初期、テレビやラジオから閉め出され、
粗末なストリートベンダーが販売するバチャータは、
レコードの売り上げでメレンゲと競うい合うようになり、人気が出て来た。
バチャテーロ:ルイス セグラ/ レナルド パニアグア/ フリオ アンヘル 等が、このジャンルを有名にした。
バチャータとメレンゲの関係は階級闘争のようなもので、
自作ギター 対 賑やかなサックス、
控えめなコルマド(食料品店というより安価なコンビニ、いつもラジオから割れるようなバチャータが聞こえてくる。)
対 上品な高級クラブ のような趣きである。

Clasicos de Luis Segura
Leonardo Paniagua Bachata clasica completa
Anthony Santos 'Bachat Compoetas'
Raulin Podriquez 'Soledad'

 


 

Juan Luis Guerra

1980年代になると、ドミニカの人たちのヨーロッパやアメリカ、
特にニューヨーク、マイアミへの移住が盛んになった。
メレンゲは彼らと一緒に、きらびやかなポップシンガーやアイドルのイメージを持ち込んだ。
ちょうどその頃、ファン ルイス ゲラは、
メレンゲのリズムを少し落とし、歌詞を詩的に深めたり、社会的コメントを含めた歌を発表した。
彼の、メレンゲとアフロラテン フュージョンは、
ラテンアメリカで大成功をおさめ、国際的にも認められた。
彼は、また、バチャータにより伝統的なボレロを取り入れ、
ボサノバ風のメロディー、ハーモニーでアレンジした。
彼は、1つの音楽スタイルに固辞することなく、
メレンゲ、バチャータ、balada、サルサ、ロック、ゴスペルなどを取り入れた。
1990年代の絶賛されたアルバム‘Bachata Rosa’で,
バチャータと西洋音楽の影響を結びを表現した。

Bachata Rosa
Ojala que llueva Café

 



 


 

Dominican Palo

パロは、ドミニカ共和国のどこでもある神聖な音楽である。
太鼓と声がおもな楽器で、普通は聖人の日に会わせて演奏されるが、
普通のパーテイ、何かの他の機会にも行われる。
その起源は西アフリカのコンゴ地域だが、メロディーにはヨーロッパの影響も見られる。
パロはキューバ、ブラジル、ハイチなどの、
アフロアメリカンの混合宗教の伝統と同じように,
色々な神々を崇拝するドミニカ民俗的カトリックである。
パロは下級階層の黒人、ムラトーと結びつき。
色々なバリエィションで異なる宗教にみられる

パロは ‘パロ’と呼ばれる長い太鼓で演奏される。
‘ポロ’の意味は木材で、すべてのドミニカのポロの太鼓は丸太を掘って作られる。
ドラムヘッドは牛革で作られ輪で丸太に、東地区ではペグで、南地区では釘で止められる。
楽器は、グゥイラ(メタルスクレイパー)、マラカス、
カタと呼ばれるマスタードラムをたたく小さなスティックが使われる。
パロが演奏する聖人によって、その形式、楽器の数、どのように演奏するかが決定される。
パロは コファディアと呼ばれるアフロドミニカ同胞団とむすびついている。
 元来、同胞団は男で構成されていたが、時代と共に、
女性と家族の相続人もその神聖な義務を行えるようになった。
それぞれの同胞団は、彼らの聖人を奉献し、
フェスティバルのとき彼らの聖人を祭るのは義務である。
歴史的に、同胞信心会は地中海のギルド的な組織に基本的に似ていて、
南スペインに住んだアフリカの人たちによって作られ、
植民地政策、奴隷貿易の結果ドミニカ共和国に持ち込まれた。
しかしながら、同胞信心会はドミニカ共和国だけでなく、
アメリカ大陸のたの地域にも見られる、特にメキシコとか中央アメリカなど、
同胞信心会はアメリカ生まれの民俗カトリック教に取り入られた。
パロはフェスティバルで聖人を祭るためやその他の宗教行事に演奏される。
楽器の構成はそのときの信仰神によって決まる。
パロドラムを両足に挟み、ロープで演奏者の腰に結び、手で叩かれる。
3人のパレロス(叩き手)は他とは全く違うリズムを出すが、うまく混じりあう。
そのリズムは、そのときの信仰神によって変わる。
たとえば、東部では、‘パロ コリド’が人気があり、
サン クリストバルでは、どちらかと言うと ‘パロ アバホ’を多く聞くことがある。
ドラムの演奏が始まると同時に、パレロスが歌を歌い始める。
彼らを取り巻く聴衆は、祖先や聖人の精と一緒になり、
参加者が憑依に陥ることもまれではない。



Palo music. Domincan Republic.
Muscia De Palos Dominicanos

 


 

参考
Iaso Records
Wikipedia:Dominican Music
「チボの狂宴」マリオ・バルガス・リョサ 作品社
「蝶たちの時代」フリア・アルバレス 作品社 
映画 'In the time of the Butterflies' 2001年 
主演:サルマ・ハエック、エドワード・ジェームズ・オルモス、マーク・アンソニー 
'The Brief Wondrous Life of Oscar Wao' Junot Días 
'Bachata' A Social History of a Dominican Popular Music,Debora Pacini Hernandez,Temple University Press.
'Merengue' Dominican Music and Dominican Identity,Paul Austerlitz,Temple University Press.
'Carribbean Currents' Curribbean Music from Rumba to Reggae,
Peter Manuel with Kenneth Billy and Michael Largey, Temple University Press.
「熱帯の祭りと宴」カリブ海域音楽紀行 石橋 純 つげ書房新社 

 



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